ブログ

講義をさぼって日記を書いている。毎年何かしらの、心を揺さぶるような出来事が秋には起こるもので、それは元号が変わったとて同じものだったらしい。8月末、歩くのも困難なほどの全身の関節痛と発熱(実際に熱は測っていないが、体感で37℃~38℃ほどあったように思える)を何とか市販薬と栄養剤で抑え込み、遠征に外出にライブに青春18きっぷでの往復に、と体力の限りはしゃいでいたら、そこから2週間近くで体重が4kg落ちるといううれしいハプニングがあった。思えばそれがきっかけとなって、さまざまなことが起こったように思うが、人の目に触れる日記なので、ここには記さない。

連絡どころか、動向すらわからなくなってしまった友人のことをふと思い出した。絵を描くことに夢中な人だった。(すぐストーキングまがいの行動をしてしまうのは私の悪い癖であるが)思い立って少し調べてみると、アニメーションを制作し、さまざまなプロジェクトにも参加しているようだった。絵を描くことが大好きで、それに葛藤し、時には陶酔し、それを歓びにして生きる彼女のことを、まだ私はうらやましく思っていたことに気付いた。

私には趣味がない。もちろん、音楽を聴くことや、人と話すこと、クラブイベントやライブイベントに出かけたり、おいしいご飯を食べたり、好きなことはたくさんあるが、これといった趣味がない。これに夢中になれば安心が出来るという絶対がない。だからこそ、安心をただ”楽しい”や”うれしい”といった情動に求めてしまい、それが切れると落ち込むのだ。好きなことを酸素補給のようにパイプを通して摂取し続けないと自分の空虚さや、それ故に将来の展望が全く見えないことを直視してしまいすぐに押しつぶされてしまう。私は常に安心がしたい人間で、そのために生活を放ってまでも奔走することが多々ある。音楽や絵、デザイン、執筆…と何かしらの創造を行う人と交流をすることが多いなか、昔から私は受け身としてのある種のあきらめを抱えているように思う。社会的抑圧と責任を負い、与えられた役割を未熟とは言え果たそうと日々奮闘するなかで生まれるフラストレーションを、私は誰かの創作を全身で享受することでなんとか発散して生きてきた。一番の問題点は、私がその自転車操業のような毎日から抜け出そうと努力をしていないということだ。日々の悲しさというものは当人が努力しない限り本質的な解決には程遠いことは理解しているが、私はそのあきらめに甘え、死ぬまで先延ばしにするのだろうと思った。